知りたがり屋
- ヒカリ
- 2024年2月20日
- 読了時間: 5分
更新日:2024年2月20日

知りたがり屋の僧侶が師に尋ねた --
「道とは何ですか?」
「それはおまえの目の前にある」と師は言った。
「なぜ、私には見えないのでしょう?」と僧侶は尋ねた。
「自分のことを考えているからだ」と師は言った。
「あなたはどうなのですか?」と僧侶は言った。「あなたには見えますか?」
師は言った。
「私には見えないがあなたには見える、などとおまえは言う。
そうやって二元的にみている限り、お前の眼は曇っている」
「"我"も"彼"もないとき、それを見ることができるのですか?」と僧侶は言った。
「"我"も"彼"もないとき、それを見たいと思うものは誰か?」と師は答えた。
おはようございます。
今日はこの文から(恐らく禅の師との対話)
綴っていきましょう。
✴︎知りたがり屋
というのは、エゴを自分の側に残し
変わる気など一切持たず
師に、好奇心で問うものたちのことだ。
✴︎ミーハーになってはいけない
知りたがりになってはいけない
彼ら彼女らは、一生、"知る"ことができないだろう。
✴︎知りたがりは変容することがない
知識を得ることはできるかもしれない。
けれどそれは彼、彼女の実存に達することはないだろう。
✴︎この師はできる限り、最大限の真摯な回答をしている。
✴︎一度目の「それはお前の目の前にある」
この回答を受けた者がもし「探究者」だったならば
その場である種の光明が起き、悟りが起きただろう。
✴︎探究者とは
エゴを師の側に差し出し
「変わる準備ができている者」のことを言う。
✴︎しかしこの知りたがり屋にはそれが起きなかった。
「なぜ、私には見えないのでしょう?」
知りたがり屋は知識の、マインドの次元で師と話している。
目の前にあるというのなら、なぜわたしには見えない?
彼は疑っている。彼の中に師(真理)への信頼はなく、敬意もなく
まだ、知識のレベルで問いかけている。
✴︎知りたがり屋はどこにでもいる。
彼ら、彼女らには
真理を感じとるセンサーを閉ざしているため
師も、その辺りの人々も対して違いはない。
その放つ芳香を受け取ろうとはせず
そこにある種の感受性を開かず
単に好奇心という自分の「頭」の中にいる。
✴︎故に師は言う
「自分のことを考えているからだ。」
✴︎ここで初めて、知りたがり屋は少しエゴを前に出す
「あなたはどうなのですか?あなたには見えているのですか?」
これは彼のエゴが刺激され、反応している証拠だ。故に彼は食ってかかる。
師に対抗しようとしている。
なんてナンセンスなのだろう。
しかし、これは彼に必要な過程だ。
✴︎しかし、依然として彼は的外れな質問をしている。
依然として彼に信頼は起こっていない。
まだ知識のレベルだ。
「あなたはどうなのですか?」
わたしには見えないことが
本当にあなたに見えているのですか?
✴︎この僧侶は
「道」とは実際に、物理的に見える「何か」だと思っている
もしくは精神的なものであれど、確かにそこに目で見える何かだと思っているのだろう。
質問が、その次元の領域から出ることがない。
しかし、師は依然として、そこには触れず
真理そのものに在る。
これが真摯以外の何だというのか?
✴︎そしてここで師は言う
「私には見えないがあなたには見える、などとおまえは言う。
そうやって二元的にみている限り、お前の眼は曇っている」
ここまでだ。この知りたがり屋に言ってあげられる最大のことは
彼の礼節の無さに付き合えるのはここまでだ。
この僧侶は、僧侶ですらなく
ただのミーハーであり、野次馬であり、レポーターか何かだ。
きっと聞いてきたことを他の僧侶か誰かに自慢するか
もしくは、「あの師はおかしなことを言う」
と言いふらして帰るかもしれない。
✴︎しかし、彼は彼の「幸せ」のための時間を過ごしていない
師というものを前にしながら
その機会を、その最大のチャンスを逃している。
✴︎探究者とは、
自身の幸せのために、誠実に真理と向き合える者のことだ。
そこにどんな隠し事があってもいけない。
そこにどんなプライドがあってもいけない。
そこにどんな嘘があってもいけない。
✴︎「"我"も"彼"もないとき、それを見ることができるのですか?」と僧侶は言った。
この僧侶はどうしようもない。
一体、誰なのか?この僧侶の視点は、誰なのか?
「我も彼もいないとき。それを見ることができるのですか?」
我も彼もいないのに、まだそれを見たいという好奇心がある。
我も彼もいないなら、なぜその質問をする?
もしこの僧侶が、この師の"ガイド"に従って
我も彼もいない場所に一緒に意識を合わせていったなら
そういう質を持ち合わせていたなら
僧侶には、この質問をすることはできない。
その質問は溶け去っている。
そして彼には悟りが起きていただろう。
故に、彼は「知りたがり屋」なのだ。
知りたがり屋が最後まで気づかれず、この対話の中にその「自我」が炙り出されている。
✴︎この対話は非常によくできている。
少しずつ、炙り出され、そして最後に裸にされる。
✴︎「"我"も"彼"もないとき、それを見たいと思うものは誰か?」と師は答えた。
さぁ、ここで全てが打ち明けられた。
師は最後まで「無我」で在り続けた。
彼のエゴに最小の揺さぶりで
この「知りたがり屋」を炙り出すことに成功した。
それを見たいと思うのは誰か?
ここでこの対話は終わっている。
なぜならこれ以上、話すことができないからだ。
✴︎知りたがり屋は仮に足を運んでも、お金を払っても、時間を掛けても
他に自分の掛けられる全てを賭けても
結局、最後まで知りたがり屋のままだ。
なぜなら、それは「お試し」に過ぎないからだ。
同時に、そこまで人を信頼することは彼らにとって危険なことだからだ。
お金なら、時間なら、物なら。
それは自分ではない。それらなら掛けられる。
でも、自分を掛けられる者は少ない。
それは危険だ。傷つくかもしれない
エゴが消えてしまうかもしれない。
✴︎本当に、自分の幸せ
自分の苦しみを解決するために
探究に向かえる人は幸いだ。
✴︎そういう人は、師をからかわないし
変に崇めることもない。
ただその存在を感じ取れる。
✴︎真摯で在る
誠実で在る
というのは
とても美しく
大切な要素なのだ。
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