慈湧 vol.6

自分の嫌いなこと、自分の好きなこと

両方同じくらい尊く、知るといい

自らが嫌いだと思ったことを尊重できない人たちは

自分を愛することができない。

同時に、人を愛することができない。

「嫌い」があることは素晴らしいことだ。

真に、自分らしく生きることができる。

ある意味、嫌いなことを通してしか、真に望む世界は観えてこない。

何を嫌悪し、何を望むのか。

同時に、嫌いなことを受け入れることができれば

人は、人のことも尊重し、愛することができる

神に出会えるのは、愛を通してのみだ

神は人ではなく、愛の質感の中にある。

嫌いを尊重できない人々は

人々を愛しているふりをして

自分の中の頭のイメージをただ愛している。

「こういう人が好き」

「こういう人なら愛せる」

という概念やイメージ、人格、人間性を愛することは容易いが

概念やイメージ、人間性を愛していても、一向に愛する機会は訪れない。

目の前のあるがままの

唯一無二のその人を尊重し、愛してごらん

人格や人間性の理想は一旦脇において。

そしてもし、「嫌い」だと感じることがあったならば

その感覚もまた、とても大切なセンサーだ。

そう感じたあなたを愛し、尊重してごらん。

そうして過ごしていると

存在は、あるがままの人を受け容れ始める

緊張は解け、互いに素直になる。

そこにはどんな教義も、体系も、方法もいらない。

ただあるがままに、本当に穏やかで

愛に満ちた質感が流れている。

それを体験したとき人は必ず

「これが愛だ」とわかる。

わかるようになっているのだ。

そう、愛の質感にはそういった感覚がセットにある。

その空気感は、瞑想でも、祈りでもない

その空気感は

最も、純粋で素朴で在りながら

神そのものでもある。

自分を愛し、人を愛する。

これは、同時進行で深まっていく。

愛することを通してのみ、今この瞬間に神を感じられる

愛なしに感じられる神のようなものも

いると言えばいるけれど...

やっぱり僕は

愛することの中に溢れるその質感が、神だと思う。

その神性が、愛だと思う。

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